ポジローぽけっと

昨日より今日、今日より明日を信じて、トライトライ

思索と経験をめぐって 森有正

  • 読み始め

テキスト(本など)は"読者の記憶に現在まで蓄積してきた文脈"と共に読まれるので、そもそもテキスト単体そのもので意味を持ち完結するということはない。テキストに共感する、あるいはテキストによって想起する情報は、読書以前に読者の記憶として存在する。
で、話をエントリのタイトルへ移すと、僕は極東ブログ梅田望夫さんの本についての言及を探していたのだけれど、そこに「思索と経験をめぐって」の引用があった。

私どもはかならず内側の促しを持っている。それに応じて私どもには経験というものが提示されてくる。それに名前をつけるために言葉というものが出て来る。さらにその言葉自体が一つの体系を成してくるとそこには思想というものが生まれてくる。思想になった時に始めて、私どもが内側に促しとして持っていたものが、だれもが参与することができる思想というものになる。これが私は人間の一生というもので、彫刻家であろうと芸術家であろうと、あるいは商人であろうと、なんであろうと究極の人生で生きる意味はそれしかない。

森さんがどういう流れでこれを述べたかは該当部分をまだ読んでいないので知らないけれど、上の引用は僕の"文脈"とひどく共感した。僕のそれとは、「人が生きるとは自分なりの世界の見方(世界観、価値観)を創っていくことだ」という僕が[創り]だした証明不可能な原理である。共感したからこそ今読んでいるんだけれど、まだ全然分からない(笑)さらに読み進めてから思ったことを書こうと思う。
P.S. なにかしらの本を友人にすすめても"文脈"が異なるのであれば、意図した想起を相手がしないということは大いに有り得る。だって僕とあなたとじゃ"文脈"が違うんだもん。だから歯がゆいし、面白いのだろうけど

  • 読み終わり

森さんにはまると確信した。理解と想像を合わせて読後の想起を記述する(あくまで想起であり、本書の書評ではない。本文文章と僕の文脈のレゾナンスによって生まれた想起でしかないです)。記す私自身、まだ経験が伴わず歯の浮いた感じがする箇所がある。しかし、エイや!

    • 対象と独立した個人(己そのもの)との相互作用こそが「経験」であり、「経験」とはすなわち「私」である。
    • 独立した個人(他人)によって構成される他人しかいない社会こそが真の社会であり、日本はその真の社会と呼べるだろうか?他人間に成り立つ相互依存(interdependent)とは異なり、他人となりえていないにもかかわらず、偽の相互依存(こうあって欲しいという幻想)によりお互いを縛り合う日本人が構成する共同体は真の社会とは呼べない。独立した個人となった他人の理解、予測は不可能であることを知った上で、我々は真の社会性を発揮し「対話」し、他人を認知し、生活をするべきである。

読み始めのP.S.で述べた「文脈」という言葉に対応する箇所が期せずして本文中にあったことは驚きともに喜びであった。前後の本文文章が無いと分かりづらいが、p.199から引用

どういう問題かということを自分の文章においてとらえることをしない。(略)物との出会いが言葉の、ある対象の関係、イメージで出会う習慣が多くて、ある一つの、私どもが立てる文章において出会うことが少ない。つまり、あるものと出会う時に、その出会いが私どもにとって、私どもが作る一つの文章になるかどうかという問題です。その習慣を日本人は非常に強く作る必要がある。

僕のいう「文脈」、引用中の「文章」は双方が「経験」に言い換えることができるだろう。また僕の文脈では「Fight Club」のopen my eyesとも関係がつくのだ、p.83から引用

以前は私の目が、目の前にあるものを見ていながら見ていなかった。聴いていながら聴いていなかったのだ

まだまだ、ごちゃごちゃだなぁ。