ポジローぽけっと

昨日より今日、今日より明日を信じて、トライトライ

科学と宗教について

理解のもとはトルストイの「人生論」の一部。彼が書いてる事を読んで、僕は、「科学はこの世界の物質の法則を解明してきた」「現代に伝わる宗教(思想)は人間がどうしたら幸福になれるか説いてきた(宗教というか思想)」と考えた。
だから時の洗練を受けている宗教(思想)にはそれなりの真理があるのかもなぁと思う。聖書とかに「生きる事の教訓」が書いてあるかもしれない。

科学と宗教(思想)の双方に言えるのは、何かしら真理を見つけた人ってのは大したもんだけど、多分誰でもいいんだ(だからと言って誰にでも見つけられるってことではない)。科学で言えば、微分って概念が大事であってライプニッツだろうがニュートンだろうが発見したのはどっちでもいい。宗教で言えば生きる為の指針を説くのは、キリストでも釈迦でも誰でもいい。
また、科学の場合は手法の確かさと使用されることでもって後世に残るけれど、思想ってのは「確かさ」が分かりにくいから思想単独だと残りにくいという違いがある(だから「信じる」って言葉なんじゃないか?)。だから偶像崇拝的に「誰か」がいてくれたり、儀式的なものがあったほうが思想が残りやすい(偶像崇拝を禁止する意味はここにある気がする。禁止する事で純粋に思想のみを残そうとしているのではないか?)。けれど、想像力が乏しい場合、思想よりも具体的なモノの方が感じやすいから思想が「誰か」や「儀礼」などにとって変わられてしまう。

科学において手法を用いるときに、使用する目的を明確にしなければ有効に使えないのと同様に思想も動機(大切にしたいものは何か?ということ)を明確にしてみなければ本質を失ってしまうんじゃなかろうか?