ポジローぽけっと

昨日より今日、今日より明日を信じて、トライトライ

Hashの原理と僕の原理

既に移転しているんだけれどもミームの死骸を待ちながらが面白くてついつい読んでしまう((ちなみに移転先))。読み始めるきっかけとなったエントリは24歳の僕が掛け値なしの真実だと考える、人間と世の中に関するふたつの"核"。面白かったので、それについて僕が連想したことを書いてみる。Hashのエントリのアウトラインをまんま引用すると↓

  • 人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能
    • それが故に(1): 記憶はただの記録にすぎない
    • それが故に(2): 世界はROMでできている
  • 世の中の大抵の物事はグレーゾーンに着地する
    • それが故に(3): 自覚された目的と哲学が全てを決める

引用はHashにとっての「掛け値なしの真実」であって、Hashがこの世界に成り立つと信じて疑わないものだ。しかしながらHashの経験的事実に基づいていているため、それは証明できないし、他人と共有できるものではない。僕はその意味でこれをHashの原理と呼ぼうと思う。人はだれしもこういった原理を持っているのではないかと思う。
僕にも経験から見出した原理があって、その一つが
自分と他人は決定的に異なる
という原理である*1。至極当たり前なんだけれど、●1についてHashが

なかなかどうして、この大前提がよく無視される。ふと気付くと、人に理解されることが当たり前のように考えていたり、他人も自分と同じように考えているはずだという無意識の思い込みが、思考の片隅に居座っている。

と述べているように、僕も同じことを自分の原理について思う。「他人も自分と同じように考えているはずだ」っていうのは想像に過ぎない。これを理解せず、自分の妄想を世界に投影し、その妄想と世界が異なるとひどく傷つき、果てには思いどうりにならないことに腹をたてたりする。それは自分と他人が異なるという認識を忘れているからだと思う。僕は
自分以外には、自分と異なる絶対に分かり合えない他人しかいない*2
と考えている。

Hashのエントリに原理という言葉をねじ込んで僕の原理の一つを書いたのだけれど、それにはわけがある。この「原理」というのが生きる上で非常に重要だからだ。なぜならば、
「自分なりの世界の捉え方を創造することこそが生きること」
だから。これこそが僕が見出した原理であるので理由として適当ではないけれど、僕は確信を持っている。人が生きるというのはただ食っちゃ寝することじゃない。23か24歳のときにそう思うようになった。そして、原理であるが故に共有できないと感じながらもそう考えるような人がいればいいなと思う。


終わりに
僕の原理の定義

  • 原理は他人と共有できない個人の哲学の基礎である

僕の原理の紹介

  • 自分と他人は決定的に異なる
  • 原理を基礎とし、自分の世界の捉え方(哲学)を創り続けることこそが生きることである

p.s.
森有正は「思索と経験をめぐって」*3のp.185,5節「あなたとあなた」で、日本において

どんなになっても個人というものは独立しない

と書き、その理由を他人の不在としている。自分と他人の境界が曖昧な人は独立できないのである。これはコービーの「7つの習慣」の自立と一致し、さらには依存、自立、相互依存のステップをエヴァンゲリオンに適用し理解することができる。これは別エントリをたててまた書こうと思う。

*1:これはHashの原理●1から演繹できる内容だけれど、僕は●1まで遡って考えたことはない

*2:Hashは「案外他人と自分の境界線なるものは、思われているよりも脆い壁なんじゃないかと考えたりもする。」と書いているので僕の原理には否定的かもしれない

*3:面白いのでオススメ