ポジローぽけっと

昨日より今日、今日より明日を信じて、トライトライ

2015年9月に読んだ本

関ヶ原 中・下

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

佐和山の狐(石田三成)VS 西ノ丸の狸(徳川家康

  • 家康は、元来、自分の疲労に対して用心ぶかい男だ。疲れれば物の考え方が消極的になり知恵もにぶる、ということをよく知っている。

  • 左近は、苦い顔で思った。三成は昔から学問が好きで、ちかごろいよいよその傾向が強くなってきている。物の考え方が観念的にするどくなり優っているかわり、そのぶんだけ、現実へそそぐ目がにぶくなっているようだ。

  • 筆者曰う。この時代、武士の人間関係は主従という縦のつながりと、父子、夫婦という関係があって成立している。のちの世の朋友、友達といった関係はきわめて濃度が薄く、現実にその関係があっても、近代のように「友情」といった倫理概念にまでは発達していない。同性の間に厚情があるとすれば、それは同性愛による義兄弟のつながりぐらいのものであろう。

    その点、石田三成大谷吉継の関係は、ひどく現代的で、ひょっとするとこの時代にでは希有の例に属するであろう。なぜならば、西欧の概念でいう友情(フレンドシップ)というものは明治後の輸入倫理で、徳川木の儒教思想にもあまりみられないし、増して戦国、またはさかのぼって鎌倉期の武士の倫理のなかでは皆無といってよかった。

島左近->石田三成

  • 「ひとには感情(こころ)というものがござる。道理や正しさを楯にとってひとの非を鳴らすのは敵を作るだけで何の利もござりませぬ」

安国寺恵瓊<->吉川広家

  • 「ーー家康殿」

    恵瓊はいった。

    「などは、さほどの人物であるとは、わしには思えぬ。わしは信長公も知っておれば秀吉公の少壮気鋭のころも知っている。そのお二人からみれば、家康殿は背の皮一枚ほどのお人だ。かの人を偉く偉くと押しあげたのは世間というものだ」

    「その世間がよ、こわい」

    広家は、恵瓊より声がひくい。しかしかつて伏見の殿中で浅野長政と危うく殴り合いの喧嘩をしかけたほどの癇癖のつよい男だけに、もう膝の上のこぶしが震えはじめている。

    「家康殿の人物の論議を、ご坊とここでやりかわしたところで仕方がない。要は世間だ。世間が家康殿をどうみているかだ。世間が家康殿を、信長公、秀吉公とならぶ英傑とみている以上、世間がどちらにころぶかはこのさいあきらかなことだ。家康殿を押し立ててゆく。家康殿は、時勢の勢いに乗る。勢いに乗る者は、実力の倍も三倍もの仕事ができるものだ。家康殿は勝つ。勝って、天下は一変する」

黒田如水

  • この男はつねに自分を客観的にみることができたし、自分の運命を自分でおかしがれる性質をもっていた。

島左近->安国寺恵瓊

  • (やはり文吏なのだ) と思うのである。心の出来が、武将とは違うようであった。武将はたとえ臆病者であっても戦場へひきだされると腰がすわってしまうものだが、文吏大名は平素どれほど広言していてもいざ戦場となると顔色をうしなってしまう。

覇王の家 上・下

覇王の家〈上〉 (新潮文庫)

覇王の家〈上〉 (新潮文庫)

  • ーー時ならぬものは食わぬと見えたり。

    と、信玄がいう。時ならぬ果実を食い、それに中毒り、病んでせっかくの大望ある身をうしなってはつまらぬと家康はおもった、と信玄は推量したのである。大望うんぬんはべつとして、家康がいかに慎重な男であるかが、この桃一つでもわかる。家康という人物は、日本の歴史にたいし、先覚的な事業をすこしも遺さなかったという点で、めずらしいほどの存在である。この桃も食えないほどの慎重さが、かれを先覚者にしなかった。しかし家康にはただ一つだけ先覚的要素がある。保健衛生の面である。明治後普及されたこの思想は、家康のこの当時、日本一般にそういう思想がほとんどなく、たとえあっても迷信呪術のたぐいで、合理的なものではない。家康は医学がすきで中年のころには侍医も手古ずるほどの医学通であったが、保健衛生思想の麺ではかれ自身が独創的に考え、かれなりのタブーをつくったが、それらは明治後の保健衛生しそうからみてもかしくない。かれは遊女が梅毒をもっているということで生涯接しなかったし、なま水はのまず、おどろくべきことにスポーツは健康にいいといことをおそらく日本史上で最初に知ったかもれしれない人物で、かれの鷹狩りなどもその必要からのもであり、そのことは諸記録に出ている。しかしこれらのすべての衛生的教養はかれ個人の生存のためにのみ存在し、かれが天下人になってからもそれを政治の場で公にせず、このためひょっとするとかち得たかもしれない公衆衛生行政の先覚者という名誉を逸した。

  • その思考法はつねにきわめて素朴で、素朴であることに自分を限定しきってしまう冷厳さをもっていた。人間の思考は、本来幻想的なものである。人間は現実の中に生きながら、思考だけは幻想の霧の上につくりあげたがる生物であるとすれば、現実的思考だけで思考をつくりあげることに努めているこの家康という男は、そうであるがゆえに一種の超人なのかもしれなかった。

  • 「わが好む侍は」

    と、家康はつねにそのことを言った。侍というものは主人に好まれるべく振る舞うため、主人の好む典型に自分を近づけようとするものであった。

    「侍に知略才能あるはもとより良けれども、なくても事は欠かぬなり。ただひたぶるに実直なれば知能を持つに及ばず。武士として義理に欠けたるは、打物の刃が切れしごとし」

  • 重臣たちの考えだけは十分に陳べさせておかねば、かれらの心に鬱懐が生ずるのである。武田信玄はそれをやったことを、家康はよく知っている。上杉謙信はそれをやらなかった。信長はときにそれをやらなかった。

  • 結局は模倣家というのは、才能の質よりも多分に性格なのかもしれない。家康はむしろ独創を激しくおそれるところがあった。独創的な案とは、多量の危険性をもち、それを実行することは骰子を投ずるようなもので、いわば賭博であった。模倣ならば、すでにテスト済みの案であり、安全性は高い。

  • 家康は口数がすくない男だったが、ひとの話は全身を耳にするような態度できくところがあった。どんな愚論でも辛抱づよく聴いた。家康はよく言う、愚かなことをいう者があってもしまいまで聴いてやらねばならない、でなければ聴くに値することを言う者が遠慮をするからだ

  • 三河衆はなるほど諸国には類のないほどに統一がとれていたが、それだけに閉鎖的であり、外来の風を警戒し、そういう外からのにおいをもつ者に対しては矮小な想像力をはたらかせて裏切者といったふうな農民社会そのものの印象をもった。この集団が、のちにさまざまな風の吹きまわしで天下の権をにぎったとき、日本国そのものを三河的世界として観じ、外国との接触をおそれ、唐物を警戒し、切支丹を魔物と見、世界史的な大航海時代のなかにあって、外来文化のすべてを拒否するという怪奇としか言いようのない政治方針を打ちだしたのは、基底としてそういう心理構造が存在し、それによるものであった。

    石川数正というこの徳川的閉鎖体制の犠牲者は、徳川時代を通じて、形と規模を変えたものながら無数に出た。ひとびとの外にむかっての好奇心を天下の法によって禁圧し、それに触れた多くの科学者やあたらしい思想家を殺したり流したりした。